「人は期待されている時ほど、幻滅されているものである」というのが自分の中の雑感であるのです。近頃の座右の銘は「好事魔多し」期待をされていたり、物事がうまく進んでいるときほど人は奢りやすく目の前の心地いい状況に自分を甘やかしてしまう。なので、そんなときほど幻滅されやすかったりするものです。
私には常に「不安」というか「恐怖」があり、その恐怖を払拭すべく、ニーチェ本を書いたあとに自分の活動の幅を広げるべく種をまきまくったのですが、いまそれらの種が芽を出し幸いにもいろんなジャンルに挑戦する機会をもつことができました。
で、そんな機会に調子のらずにストイックにやっていく他に選択肢はないのですが、この湧き上がる「恐怖」は一体なんなのか?ということに関して考えてみました。
それは「将来食えなくなるのでは?」というお金の問題というわけではなく「自分の感性が時代性からみて古くなるのでは?」というものです。
今自分がおもしろい!と思うこととJKたちがおもしろい!と思うことはおそらく明確にちがうだろうし、焦点をJKにあてるわけではありませんが、筋力と一緒で感性は鍛えなければ老化してしまうと思うからです。常に同年代を相手にすればいいじゃん!と思われるかもしれませんが、エンタメ作品をつくるためにはおもしろいの質を時代と擦り合わせていかなければならないようにも思います。
まぁ、こんな話がありつつ、先日哲学者の千葉雅也さんの「勉強の哲学」の講演会に参加してきました。ものすごく信頼している編集者さんと、飲茶さんと3人でいってきたのですがそこで話されていた勉強するとキモくなる(周りとノリが違ってくる)という話が、経験したことでもありとても楽しかったです。
近頃は打ち合わせで「昔、アイドルグループにいたんですか?知らなかったです」と言っていただけることが増えてとても嬉しいです。三年間でちがうノリに変形できてきたのかな、と思います。
そしてMBさんのラボのイベントにもまたお邪魔してきました。
私は洋服がわりと好きなほうですが、おしゃれについて考えるならば「おしゃれとは行為ではなくマインドである」と思います。
例えば、私は派手な見た目の男性が好きなのですが、それは「派手な見た目」に関するフェチズムというよりも「派手な見た目」を社会性の担保としてみているように思います。
派手な見た目にすることで「個」が際立ってしまう→個を目立たせるということは社会においてリスクがあるので自信がなければできない→社会的に自信をもっているので派手な格好ができる
といったように、表象としての「派手な見た目」ではなく「派手な見た目」に裏付けされるマインドを見ているのだと、思います。「女性は結果ではなく、経過をみる」ということを人工知能研究者の黒川伊保子先生の本で読みましたが、そういったようなニュアンスかもしれません。
しかし、演繹的に考えると、「行為によりマインドを変える」ということも可能であるともいえますね。行為によりマインドが育つということを考えると、まずなりたい自分のように振る舞い、行動することで得られるものも多いのではないかと考えます。
MBさんのラボではそのような「行為によりマインドに自信がついた」という方が多いようで、逆説的アプローチの有効性を垣間見ることができたな!と思います。またお邪魔させていただきたいです。
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