【ブログ】須藤凜々花さんの発表とニーチェ思想の整合性について

ニーチェ好きを公言されているNMB48の須藤凜々花ちゃんがAKB総選挙でまさかの「結婚宣言」したことが話題となっています。

その須藤凜々花ちゃん(以下りりぽん)の発言とニーチェの関連性について昨晩自分の中で思うことがたくさんあり、一晩考えたことをまとめました。


https://news.yahoo.co.jp/pickup/6243689


りりぽんは、哲学書を読むのが好きで「アイドルなのに哲学書を読むのが好き」というフレーズでも親しまれていました。

私も昔、風男塾というアイドルユニットにいたので、他人がこうした「アイドル」と「哲学」のギャップを面白がるのはよく見聞してきました。

けれどもそもそもどうして「アイドル」と「哲学」にどうして語義矛盾的なニュアンスを感じるのでしょう?

「アイドル」=知性的ではない、感情的、ちょっとおバカ

「哲学」=理屈っぽい、理性的、難しそう

という先入観があるのだとしたら「アイドル」という言葉に対する先入観と「哲学」という言葉対する先入観の間にギャップが生まれますよね。

けれどもこうした先入観はあくまで「アイドル」という一般概念に向けての先入観です。

つまり特定の誰か…を指しているわけではなく「アイドル」という一般概念と「哲学」という一般概念のイメージの間にギャップが生まれるわけです。



りりぽんはそうした「アイドルという一般概念」とは一味違った、個性的な発言が魅力だったと思います。また彼女はニーチェをはじめとする「実存主義哲学」が好きだった。

実存主義哲学の先駆者キルケゴールは「万人に正しいとされる幸福=個人の幸福ではない。私にとっての真実とはなにか?」という問いを生涯かけて追求していました。

りりぽんも「アイドルという客観的役割としての自分」ではなく「須藤凜々花という個人としての自分」を大前提とし、生きていたのだと思います。

彼女に寄せられる批判の中で「アイドルとしてみんなに迷惑がかかる」「応援してくれたファンの気持ちになってみたの?」というものもあります。

しかし、私が思うにそうした批判は「全体主義」を前提とした発想であり、「個人主義者」のりりぽんとは思想観に大きな隔たりがあるとおもうんです。

なにを正解とするのかという思想の違い、つまりは宗教戦争みたいなものなので、どちらが正論ともいえず「自分が何を前提として話しているか」で正解は大きく変わってくるのだと思っています。


「〜はこうすべき」「ルールを守るべき」という、物事には正解がある。という考え方は、りりぽんが好きな「実存主義」とは真逆の「本質主義」的な発想です。

りりぽんが好きな実存主義哲学者たちは「生きていることに前もって意味が用意されているわけではなく、善悪は曖昧なものである」「どのような挫折も自分が望んだものだとして受け入れ、それを越えていけ」という風に説いています。

つまり「恋愛禁止の中で恋愛をしたことは悪だ」という善悪の基準も曖昧なものです。

グループの中ではあたりまえのルールかもしれませんが、「あたりまえ」だとされていることになんの疑問を抱かずただ従い生きることは、りりぽんが好きなニーチェが嫌っていた「畜群道徳」そのものです。

※畜群道徳…集団から孤立することを恐れている凡庸な者たちによる道徳

「畜群道徳」こそが全てだという価値観の中で追い詰められると、逃げ場をなくしブラック企業のように自殺する社員が生み出されるのでしょう。

あたりまえだとされていることに、疑問を抱くというのが哲学の大前提ですし、そうやって哲学は発展してきました。

彼女が「アイドルという一般概念」になんの疑問もなく生きていたのであれば、将来哲学者を目指す上で致命的だったとおもうし、

哲学的に生きていたからこそ「アイドルという一般概念」とは違った個人的な世界をつくりだしていたのだと思います。


まだ若いので、週刊誌に撮られたタイミングもあり混乱していたと思います。

その中で

「一度きりの人生、として人生を真面目に考えたときにアイドルとして大成するのかor自分らしく生きぬくのか」


という「あれか、これか」を真剣に考え、自分の人生に誠実に向き合った結果なのでしょう。

「ファンが可哀想」という言葉の裏には「アイドルである以上、個人として意志を持つことは許されない。一般概念としてのアイドルとして畜群として機能しろ」というように私には聞こえます。

ファンであるから、というのを免罪符に彼女の個人意志を拘束する権利が果たしてあるのでしょうか?

アイドルとして大成したいなら、恋愛が発覚しても事務所にスルーしてもらうなり、禊をうけるなりがあったでしょう。

けれども彼女の中では「アイドルとしての自分」はひとつのペルソナとして区分しており、もっと根深く「須藤凜々花個人としての自分」が確立されていたのだと思います。

あの発言は「アイドルとしての須藤凜々花」としてペルソナの上から呟いた言葉ではなく、「素の須藤凜々花」としての言葉であり、それがりりぽんの考える「誠実さの形」だったかな、と思います。

偶像に「綺麗ゴト」や「責任感」を求めるのか、「人間らしさ」を求めるのかでは、求める言葉も随分違ってくるでしょうしね。

「あれか、これか」を選ばず曖昧にその場をやり過ごすよりも、「あれか、これか」を決断して覚悟をきめた彼女はとても素敵だと思います。


成功することは量的で、幸福になることは質的です。

量的な成功を追い求める人たちが多い芸能界で、他人に染まらず自分を貫いた二十歳の英断ではないでしょうか。

彼女は全てを敵に回しても、自分の人生に責任を取る覚悟で決断した。一貫性を気にしすぎるより、よっぽど自由で人間らしい生き方だとおもいます。私は今後もりりぽんを応援していきたいです。りりぽん頑張れ!




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